新頭町戯曲集

複数人の作家で作られる戯曲によるエセメタバース

かもめにまつわるエトセトラ(前編)

★登場人物紹介
鰻谷・・頭町大学の卒業生。区役所の文化観光課で勤めている。天然パーマ。爪を切るのが遅い。依田のことが気になっている。
依田遥・・頭町大学舞台芸術学科M2。鰻谷の後輩。コーヒーは豆から挽く派。「荷物は少なめ」がモットー。

頭町大学内カフェテリア「アレクサンドリア」にて。
鰻谷がMacbookを睨みつけながら、頭を抱えている。

鰻谷
・・・・・・・・・・・(ため息)

 依田がパエリアとアイスコーヒーを載せたトレイを持って通り過ぎる。
 依田、戻ってくる。

依田
鰻谷先輩?

鰻谷
・・・・・え? あー!え!依田さん?

依田
またきたんですか

鰻谷
またってことはないでしょ、最近来てなかったよ

依田
勝手に大学入ってきちゃだめですよ。前も言いましたよね

鰻谷
あ、えそ、いやでもカフェはいいんじゃない、ほら地域の人とかいいでしょ、入って

依田
え、先輩どこ住んでるんでるんですか?

鰻谷
え、膝沢

依田
どこっすか

鰻谷
え、足並区

依田
遠。地域の人じゃないじゃん

鰻谷
いいじゃないですか、真面目だなあ、依田さんは。あ、ここ、ほら座って。どうぞ

依田
あ、どうも。

 依田、座る。

鰻谷
なにそれ。

依田
カフェテリアアレクサンドリア特製シーフードパエリア

鰻谷
脚韻踏んでんじゃん。・・美味しそうだね。

依田
何してたんですか

鰻谷
え、まあ仕事?そうそう!依田さん、相談乗ってよ、相談ってほどじゃないけど悩んでるってか、話聞いてよ、食べながらでいいから。

依田
なんすか

鰻谷
チェーホフの『かもめ』って読んだことある?

依田
ありますよ。19世紀ロシアを代表する劇作家アントン・チェーホフ(1860−1904)後期の作で、芸術家とそれを取り巻く人々の群像劇を通し、芸術における伝統と革新の対立、純粋なものが世俗的なものの前に滅んでいく悲しみを描き切った傑作で、演出家スタニスラフスキーによりモスクワ芸術座での上演が好評を博し近代リアリズム演劇の新たな扉を開いたとも言われ世界演劇史においても重要な作品ですよね。

鰻谷
・・・詳しいね。

依田
はい。先週宝田さんの読書会で読んだんで。

鰻谷
宝田って何、宝田明

依田
はい

鰻谷
え、仲良いの?

依田
まあ、普通です。

鰻谷
あそうなんだ。

依田
なんですか

鰻谷
いや別に。・・それでなんだっけ。あのーそう。いまさぁ、演技のワークショップ?みたいなのに通ってて、僕が、今度やることになったんだよ、ニーナを。ニーナの演技をね。

依田
ニーナですか?鰻谷さんがやるんですか?

鰻谷
そう

依田
えどのシーン?

鰻谷
最後最後。ニーナといったら最後のモノローグでしょ。これみて

 鰻谷、Macを依田に見せようとする。見えずらい。依田、鰻谷の横に来てMacを覗き込む。鰻谷、急に近づかれたので少し緊張する。

 依田、じっと画面を見る。

ニーナ
わたしの歩いた地面に接吻したなんて、なぜあんなことをおっしゃるの? わたしなんか、殺されても文句はないのに。(テーブルにかがみこむ)すっかり、へとへとだわ! 一息つきたいわ、一息! (首をあげて)わたしは――かもめ。……いいえ、そうじゃない。わたしは――女優。そ、そうよ! (アルカージナとトリゴーリンの笑い声を聞きつけて、じっと耳をすまし、それから左手のドアへ走り寄って、鍵穴からのぞく)あの人も来ている……(トレープレフのそばへ戻りながら)ふん、そう。……かまやしない。……そうよ。あの人は芝居というものを信用しないで、いつもわたしの夢を嘲笑してばかりいた。それでわたしも、だんだん信念が失うせて、気落ちがしてしまったの。……そのうえ、恋の苦労だの、嫉妬だの、赤ちゃんのことでしょっちゅうびくびくしたりで……わたしはこせついた、つまらない女になってしまって、でたらめな演技をしていたの。両手のもて扱い方も知らず、舞台で立っていることもできず、声も思うようにならなかった。ひどい演技をやってるなと自分で感じるときの心もち、とてもあなたにはわからないわ。わたしは――かもめ。いいえ、そうじゃない……。おぼえてらして、あなたは鴎を射落としたわね? ふとやって来た男が、その娘を見て、退屈まぎれに、破滅させてしまった。……ちょっとした短編の題材……。これでもないわ。……(額をこする)何を話してたんだっけ?……そう、舞台のことだったわ。今じゃもうわたし、そんなふうじゃないの。……わたしはもう本物の女優なの。……わたしは楽しく、喜び勇んで役を演じて、舞台に出ると酔ったみたいになって、自分はすばらしいと感じるの。今、こうしてここにいるあいだ、わたしはしょっちゅう歩き回って、歩きながら考えるの。考えながら、わたしの精神力が日ましに伸びてゆくのを感じるの。……今じゃ、コースチャ、舞台に立つにしろ物を書くにしろ同じこと。わたしたちの仕事で大事なものは、名声とか光栄とか、わたしが空想していたものではなくって、じつは忍耐力だということが、わたしにはわかったの、得心が行ったの。おのれの十字架を負うすべを知り、ただ信ぜよ――だわ。わたしは信じているから、そう辛いこともないし、自分の使命を思うと、人生もこわくないわ。
アントン・チェーホフ『かもめ』神西清 訳 青空文庫

鰻谷
いいセリフだよねえ

依田
なんでそう思うんですか?

鰻谷
え?いいセリフじゃない?

依田
いいセリフだと思います。でも、なんでそう思うんですか?どこがどういいんですか?なんでこれがいいセリフだと思うんですか?それを考えないと、いい演技なんてできない、そう思いませんか?

鰻谷
・・そう、思います

依田
じゃあどこがいいセリフか考えましょう。私も考えるんで。

鰻谷
なんだろう。「わたしは――かもめ。……いいえ、そうじゃない。わたしは――女優。」って、有名だけど、なんかすごいぐっとくるよね。なんでだろう。

依田
なんでニーナは「わたしはかもめ」って言うんでしょうね

鰻谷
え、それは。だって比喩なんでしょ。ここでいう「かもめ」っていうのは第二幕でトレープレフが撃ち殺したかもめのことで、のちのセリフで「ふとやって来た男が、その娘を見て、退屈まぎれに、破滅させてしまった。」て言ってるように、ただ気ままにに飛んでいただけなのに、暇つぶしに殺されてしまった哀れなかもめ、それに自分を重ねているんじゃないの。

依田
そうですね。じゃあどういう経緯を経て、ニーナはかもめに自分を重ねるようになったんでしょう。

鰻谷
最初はトレープレフが鴎を殺して・・・

依田
はい。第二幕でトレープレフはかもめの死骸をニーナの足元に置き、「今日ぼくは、この鴎を殺すような下劣な真似をした。あなたの足もとに捧げます。(中略)おっつけ僕も、こんなふうに僕自身を殺すんです。」と言ってます。第二幕でのトレープレフは、自らが創作した新作の前衛演劇が失敗に終わり、屈辱の中にあった。しかもニーナは流行作家のトリゴーリンに恋をしかけている。このことに我慢がならなくて、鴎を撃ち殺した。「これは僕だ」と言わんばかりに。けれどもこの時点でニーナは死んだ鴎が何を意味しているかわからない。「この鴎にしたって、どうやら何かの象徴らしいけど、ご免なさい、わたしわからないの……わたし単純すぎるもんだから、あなたの考えがわからないの」と。けれどもその後、トリゴーリンがこの鴎を見つけると、「きれいな鳥だ」という。死んだ鴎をみて。そしてこう言う「ほんの短編ですがね、湖のほとりに、ちょうどあなたみたいな若い娘が、子供の時から住んでいる。鴎のように湖が好きで、鴎のように幸福で自由だ。ところが、ふとやって来た男が、その娘を見て、退屈まぎれに、娘を破滅させてしまうーーーほら、この鴎のようにね」

鰻谷
え、これ予言みたいなことしてない?

依田
そうなんです。トリゴーリンにとってはただの短編小説の題材だった。ニーナと殺された鴎を見て思いついた短編戯曲の題材、それがそのまま現実のものとなっていく。

鰻谷
こわっ、トリゴーリン、こわっ。これどれくらい意識的にやってんだろう

依田
トリゴーリンもニーナも、無意識な気がします。この短編の筋が無意識に刷り込まれているというか。でも一方で「お前は父を殺し、母と交わるだろう」ソフォクレスの『オイディプス王』の予言のように、ストレートではないですが、トリゴーリンのこのセリフによって、観客にはこの二人の未来に悲劇的結末が待っていることを予感させてますよね。

鰻谷
すごい、なんか、技術を感じる・・

依田
伝統的な悲劇の手法をさりげなくながら明確に踏まえてます。

鰻谷
そっか、だからトレープレフからしたら、惨めな自分のメタファーとして撃ち殺した鴎だったわけで、それをあてつけのようにニーナに渡したんだけど、それがニーナの悲劇の始まりになってて、トリゴーリンの作家としての直感(トレープレフからしたら認めたくないのだけど、やはりトリゴーリンには文学的才能がある)により鴎はニーナのメタファーになる。これまで観てきた観客にとっては、ニーナの「わたしはーーかもめ」というセリフには過去の女優としての成功と恋に憧れる純粋無垢な少女だったかつてのニーナと、恋人に捨てられ、夢も破れ、ぼろぼろになったニーナの姿が二重写しになる。ニーナという人間の歴史が「わたしはーーかもめ」という短いセリフの中にぎゅっと凝縮されている。それでこのセリフは感動するのか!

依田
そうですね。そうなんですよね。でもなんか、、

鰻谷
なになに

依田なんかそれはそうなんだけど、真面目すぎるっていうかもっと読めるよなっていうか、そう、もっと深く読めると思うんですよね。

鰻谷
そうなの

依田
わかんないですけど、上手く言えないですけど、なんか私、ニーナは可哀想だけど、でもニーナには破滅の欲望もあったんだと思います。

鰻谷
破滅の欲望?

依田
うーん、ちょっとまだうまく説明できないですけど。あ、パエリア冷めちゃいました・・・

鰻谷
あ。

 依田、パエリアをかっこみ、続けてアイスコーヒーを飲み干す。

依田
(パエリアを頬張りながら)来週の日曜空いてます?

鰻谷
え?

依田
日曜会えます?

鰻谷
(どぎまぎして)え、会えるよ。

依田
宝田さんの読書会またあるんで来てください。この続きまた話しましょう。それまでにわたしももっと考えときます。

鰻谷
・・・あぁ。宝田の読書会ね。おっけー、、

依田
じゃ、また日曜に。仕事がんばってください。

 依田、そそくさと去っていく。

鰻谷
またー。

・・・・。


 鰻谷、しばらくMac で何かしらの作業をするが、やめる。

鰻谷
クソ宝田明が。